大谷能生×木村覚往復書簡(メール)1

DIRECT CONTACT VOL. 1とは何だったのか?

この問いをめぐって、大谷さんとぼく木村とで、メールで往復書簡を続けています。まだまだ話すべきことが残っている段階です、ひとまず(大谷さんが京都から帰ってくるGWあけくらいまでストップしてしまうので)「前半」として公開いたします。


以下は、4/29-5/2にかけて(1)木村→(2)大谷→(3)木村→(4)大谷→(5)木村と往復した8900字。

どうぞ、ご覧下さい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(1)木村→大谷 

大谷さんへ
 お疲れ様でした。

 打ち上げのとき、往復メールのかたちで、今回ぼくたちが行ったイベントが何であったのか、ということをふり返ってみようと2人で話し合いましたね。できれば、熱気と記憶が忘却の彼方へと消えてゆく前に、始めてみたいと思うのですが、よろしいですかね。

 ともかく、ぼくたちの予想を超えた観客動員で、なによりもそのことに、正直驚きました!入場料を払って下さった方が毎夜六十名くらいになり、その他、今後出演をお願いしている招待扱いのアーティスト、スタッフ、関係者を含めると立ち見もでた満員状態。このことは、神村恵が見たい、室内楽コンサートが見たいというお客さんのみならず、DCという企画自体に興味をもって来てくれた方たちもいた、ということを意味しているように思えます。前半だけ(一日目、二日目は神村、三日目は室内楽コンサート)で帰るお客が極端にすくなかったことからも、そのことは明らかでしょう。そして、だからこそ、こういうまとめを二人で書いた方がいいのではないか、という話しにもなったわけです。

 ところで「ダイレクト・コンタクト」というコンセプトには、音楽とダンスという異ジャンルを直接的に接触させることと同時に、両者の観客をそうした状況に置く、ということが含意されていました。大谷さんもそうかも知れないけど、ぼくは異質なもの同士が出会って、痙攣的な状態が発生することに、異常な執着があります。世は、「そんなの関係ねえ」も関係なくなってしまった、没関係的なマインドが充満してもいますけど、高クオリティなものが同じ空間に並んだ三日間は、思っていた以上の希有な異常事態だったのではないかと、主催者側なのにもかかわらず、一観客としての(それは、記録係だったぼくにとっては、片目がビデオカメラ越しの中途半端な観客だったりするのですが)興奮が持続したままです。

 一観客として、神村恵を見た目から(とくに、最初の日がその順番だったので、そう言いたくなるのですけれど)室内楽コンサートを聴き、見た感想なんですけれど、非常に「ピュア」な印象をもちました。室内楽コンサートのコンセプトは、即興演奏を主として行ってきた者たち(宇波、杉本、大蔵)による作曲に基づく演奏、でしたよね。彼らによって楽譜に記された指示に従う演奏者は、とても誠実に楽譜の指示を遂行する。それは、一日三曲、三日で九曲演奏された内のどの演奏にも共通に感じたことでした。で、その誠実さがピュアであると思った以上に、指示という他律的なきっかけで(演奏者の自発性ではなく)音が鳴り(on)消える(off)その状態が繰り返されたこと。「ピュアだ」という印象の中心はそこにあります。

 楽譜とはいえ、それが実際に演奏された際に、どういう結果になるのかわからない。そうした、作曲者の他律さえここには発生していて、誰もここで起きることがどんななのかあらかじめわからない。その「わからない」が「生起するもの」になるべく委ねること、ぼくは室内楽コンサートに一種の哲学があるとすれば、そうした「生起すること」を可能な限り肯定する「ある」の哲学なのではないかと思いました。最終日の打ち上げでも、そうしたことが確か話題になっていたと記憶しています。酔っぱらいの記憶に基づく限り。

 その打ち上げの席で、この点に触れた際、あえて「ケージ」という名をぼくが出して、やはりケージは関係ないと大谷さん、言ってました。確かそのとき、ケージという音楽史の一エピソードに室内楽コンサートへの解釈を一元化する必要はないんだ、ここ(室内楽コンサート)にはそれ独自の課題があり、回答があるはずだ、でもまだ誰もそれがどんなことなのか分からない、といったことを話し合った記憶があります。それは間違いなくとても大事な指摘で、また『貧しい音楽』のどこかを読めば理解出来ることなのかも知れないのですが、できれば、ぼくはそのことがもう少し分かりたいです、教えて欲しいです。加えて、大谷さんが室内楽コンサートをDCの第一弾に選んだ理由も聞きたいなあ。

 ところでぼくは、「ある」の哲学に対してある一定の疑問をずっともっています。「ある」の哲学に基づく芸術は、その芸術の主体が誰なのかをしばしば消去してしまいます。上記したように、室内楽コンサートにもそれを感じました。対して、神村のダンスでは、主体は明確に存在しています。神村という一主体がその場を支配していることは、いつでも明らかです(照明を自分でもってきて付けたり、などというところのみならず、たいていの瞬間瞬間においても)。しかし、その主体は謎めいていて、リーダブルな表情は見せてくれません。だから観客は振り回される。しかし、それは(上手くいった場合にはとくに)見ないわけにはとんといかない誘惑的な時間を生む素になっていると思うのです。

 他方、そうしたコントロールの力がうすい、弱いのはどうしてなんだろう、という疑問が室内楽コンサートにはあります。弱いのに「ある」という状況に観客をつきあわせているという事態には、SM的な関係性(一種の放置プレイ的な面)があると言えなくもないのだけれど。
 ぼくが思った神村恵と室内楽コンサートの際だった違いは、まずここにあると思いました。

木村覚
(2008年4月29日 0:23:10)
[PR]
by directcontact | 2008-05-02 22:36 | vol.1神村恵×室内楽コンサート


<< 大谷能生×木村覚往復書簡(メー... 大谷能生×木村覚往復書簡(メール)2 >>