大谷能生×木村覚往復書簡(メール)3

(3)木村→大谷

大谷さん
そういえば、初日と楽日に出演者の多くの方たちとぼくたちとで打ち上げをしたとき、観客数の話題が出てましたよね。音楽家たちは誰もが「観客0人」を経験しているという話。ダンスの世界では、0人という話は聞いたことがないので興味深かった。

 とくに、PlanBで宇波さんがダンサーや画家たちとやった0人コンサートの話は、大爆笑ものだった。大阪からわざわざやって来た画家が一番かわいそうだった。なぜなら彼は誰1人として観客のいない空間に自分の絵をかけて、それだけだった、と。それ聞いた時は、泣くほど笑いましたが、そもそもどうして画家は一番かわいそうだったのか、などと考えてみたくもなる。もちろんひとつは、踊りもつま弾きもしない「絵を壁に掛ける」という最小の労働しか現場にないことの悲しさもあるでしょう、フィジカル面が発揮出来ない分、観客がいてくれないとそこにいる意味がほんとになくなってしまう。

 ただ、もうひとつ理由がある気がします。つまり音楽は、ミュージシャンが同時にリスナーであるけれども、絵画やダンスは(とくにダンスは)、画家やダンサーが同時にオーディエンスであるとは言いにくい、という違いに、その「かわいそう」は大いに起因しているといえないでしょうか。簡単に言えば、音楽は演奏しているだけで充足出来るところがある。けれども、絵画やダンスは観客を必要とする。単純に自己満足という意味ではないですよ。だって、ダンスにしたって、踊っているだけで気持ちいいものだし、そのフィジカルな自己満足の次元でならば、音楽もダンスも同じです。そうではなくて、音楽はどこか、原理的に演奏と聴くことの間が近くて、演奏者もつねに、音楽の聴き手であり、そうであるばかりか、よい聴き手でなければならない。対してダンスは、舞台の渦中にある限り、ダンサーは自分のダンスをみることが出来ない、その全体を把握することが出来ない。他人の眼がないと自分がいまどういうことをしたのか明確には分からない(ダンスの教室に鏡があるのは、まさにそうした他人の眼が不可欠だからでしょう)。こうした違いが、最初のメールでぼくの書いた「ある」の哲学ときわめてざっくりといった音楽の音楽性に対する、神村的な観客に対して謎を投げかけるダンスのダンス性との違いに反映しているようにも思います。

 あまり大谷さんからの返信にストレートに答えないものになりました。できれば、ぼくの最初のメールに応答してもらえたらと思っているので、小気味よい返答ではなく、すっとぼけてます。おゆるしを。多分、室内楽コンサートの問題はスコアの問題であり、ケージ的なサイレンスの問題ではないけれども、ケージ的なスコアの問題かも知れない、などと思ったりしながら、次の返信を待ちます。

 そうそう。慶應の講義おつかれ。いつか潜ってみよかな。

木村覚
(2008年4月30日 16:05:14)
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by directcontact | 2008-04-30 16:41 | vol.1神村恵×室内楽コンサート


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