大谷能生×木村覚往復書簡(メール)5

(5)木村→大谷

 なるほど、いろいろわかってきました。

 大谷さんの整理に従うと、即興演奏=「主体が明確に存在」している音楽で、そうした「演奏者=主体(強い意志をもった)」への問い直しを画策しているのが室内楽コンサートである。そして、その問い直しは、演奏者の楽器との関係にさまざまな(自発的、他律的、あるいは楽器が演奏者から離れ自律的になる)可能性があることの確認を導いた。この複数の可能性が存在することは「では、音楽が成立するのは何によってなのか?」という問いへと進む。「なんでもあり」なのか?例えば、「音」と「蕎麦のメニュー」の関係は音楽を成立させないのか/されるのか?

 そうした音楽の成立可能性への探究が、演奏者側にとって、大きな課題だったことは想像出来ます。「自分は一体何をやっているのか?」という疑問が眩暈のようにしてあふれてきてしまう、そうした事態が、「なんでもあり」(?)という現状に際してあったろう、と思うからです。存在論的であるのみならず、一種の実存的な問いが噴出してきたのでは、と大谷さんのメールを読むことで推測出来ます。

 さて、ぼくが大谷さんに一貫して問いかけているのは、演奏者と音楽の関係は、それらと観客との関係へ問いをひらいていくことによって(のみ)明確になるのではないか、ということです。観客も実存的な問いに苛まれるわけです、「なぜぼく/わたしはここにいるのか?」と。

 ところで、DCに来てくれたぼくの知人たちは、口をそろえて室内楽コンサートは「ケージ以後の音楽なの?」という解釈をぼくに投げかけてきます。「なつかしい」と口にする者もいます。彼らの多くは、室内楽コンサートを見た/聴いたのがはじめてなのはもちろんのこと、現代音楽史が丁寧に理解出来ている人物たちではありません。なので、当然、大いなる誤解というか、荒っぽいコンテクスト化によってそうした「ケージ」というキーワードを発しているのは確かです。けれども、観客が、(室内楽コンサートの)新しい観客がそうした不理解とはいえ何らかの理解を積み重ねてゆく。観客というのは、ぼくを含めて、どうしようもなく、コンテクスト化しながら対象を咀嚼しようとするものですからね。「能動的に観客に聴くことを要求する」はずの音楽が、短絡的な理解、消極的な消費しかもたらさないとしたら、とてももったいないことです。けれども、そういう可能性にひらかれてしまっていることは、芸術的表現の宿命というべきものでもあるでしょう。

 観客は、自律的な一主体として自由で能動的な聴取を積極的にしたいと思う前に、自分をコントロールして欲しい、ドライヴして欲しいと思うのでは。そうした観客に対してどんな仕掛けが用意出来るのか?もちろん、観客の被支配の欲求をはぐらかすことも可能な仕掛けのひとつだと思うんですけどね。

 で、少し具体的な話をした方がいいと思うんですが、例えば、二日目の2曲目「Three Speakers」(3人のプレイヤーが楽譜=台本を読む作品)は、言葉(恐らくほとんどは印刷された文章でしょう)を発する/読むことで構成される曲でした、ぼくはこれは「言葉」へのアプローチという枠を設定してみたばあい、やや素朴だと正直思いました。楽器と演奏者との関係(ここでは、身体とその主体との関係)ではなく、ここで重要だったのは、楽譜と演奏者の関係だったと思いますが、楽譜(言葉)を読む(on)/読まない(off)という関係のみが(あるいは複数の読み手の声が交差するという事態が)、その時間を生成させていた。そこにどんな読み方がありえたのか、というパラメーターはなかった。それがないということが、ある種の「ピュアネス」(清さ、潔さ)を感じさせるのですが、つまり一端、そこに足を踏み込んでしまうと音楽というよりも演劇の問題へと事柄が一気に滑っていくでしょうから、それをしない、という選択は賢明かもしれない。けれども、多少、今日の演劇の状況を観察している者として見ると、やはりいま検討するにたるトライアルが抜けてしまっている、という気持ちになってしまうのです。例えば、チェルフィッチュが、言葉を発する時に、身体がどう動いてしまっているのかという問いをいま投げかけている。最近の彼らの公演「フリータイム」は、ぼくのなかで演劇という以上に音楽的に見えた。言葉を素材に、身体がしているのは演技(存在しないものをあたかも存在するように見せる行為)ではなく演奏(楽譜の解釈を黙々と繊細に遂行する行為)というべきものだったように見えました。

 ぼくは先に書いたように、まさに音楽的なマトリクスがしっかり頭にない人間なので、演劇のコンテクストへとスライドしてしまうのかも知れません。ただ、こうしたクロッシングこそ、DCの試みそのものだと思うので、もう少し付き合って下さい。

 三日目に演奏された3曲については、ぼくはとても面白く見ました。その理由の多くは、10人以上のミュージシャンが集まって、非常にストイックな(なんら主体性を発揮しない)演奏をしているという誠に「ばかばかしい」様子が、おっかしくて、室内楽コンサートが向かう「音楽のわからなさ」あるいは「不在」への問いはそのとき、非常に滑稽な相貌を見せていた。自己批評的だった/そう見えた、といえるかもしれないです。とくに、3曲目の曲で、演奏者のストップウォッチを凝視する様が、とくに「カラ」振りの指揮者によって(40分ほどの演奏中、演奏者の誰も従わず、演奏にほぼなにも貢献していない指揮者のパフォーマンスは、そのむなしさによってまたその執念の持続によって爆笑ものでした)その事態がクローズアップさせられていく。とても効果的な演出がそこにはあった、と思いました。

 次に、神村さんの公演についてももう少し具体的に触れなければと思いますが、ひとまず、大谷さんにバトンを渡します。

木村覚
(2008年5月2日 9:29:00)
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by directcontact | 2008-04-20 22:44 | vol.1神村恵×室内楽コンサート


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