大谷能生×木村覚往復書簡(メール)6〜8

しばらく間が空きましたが、大谷×木村往復書簡、6〜8をアップします。
まとめてこの3通をしばらくは下記のように連続した状態で、ひとつの記事にしておきます。どうぞ、ご覧下さい。



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(6)大谷→木村

ずいぶん間があいてしまってすいません。再開しましょう。あ、先日杉本さんとお会
いしたんですが、「ライブが終った後に<あれはなんだったのか?>と、いろいろと
書いてもらえるのは嬉しいので、ぜひ続けてください」とのことでした。続けましょ
う。
 木村さんの返信から、大谷への問いの部分を反復してみます。

 <ぼくが大谷さんに一貫して問いかけているのは、演奏者と音楽の関係は、それら
と観客との関係へ問いをひらいていくことによって(のみ)明確になるのではない
か、ということです。観客も実存的な問いに苛まれるわけです、「なぜぼく/わたし
はここにいるのか?」と。

 これは難しい問いですね。とりあえず、ぼく個人にとって「音楽において、観客と
は?」ということを考えてみたいと思います。
 「観客」という言葉は、パフォーマンスの現場に立会い、目の前で演じられている
行為を、その行為者と同じ時間のなかで経験して、しかるのち、その経験をなんらか
の作品体験として受け止める人、のことを指していると思います。そして、舞台やダ
ンスにおいては、その享受者は、基本的にみな「観客」という言葉できちんと指し示
して対象化することが出来るように思います。
 これに対して、音楽においては、「リスナー」という言葉があります。この言葉が
いつごろから使われ始めたのかについては確認していませんが、しかし、この言葉に
は確実に、「観客」という言葉だけでは指し示すことの出来ない、ある音楽の聴き方
の提示が含まれているように思います。
 「リスナー(Listner)」は、もちろん観客でもありますが、彼や彼女が音
楽として触れるものの多くは、はじめからCDやMP3といったメディアを経由し
た、データ化された、反復することの出来る、その大体は値段の付いた音響の持続で
す。「リスナー」はそういったパッケージングされ終わった音楽作品を購入し、現地
でその音楽を生産した演奏者や作曲者とは無関係に、自分の所有物として、自分の好
きな方法で扱うことが出来ます。
 こうした「音楽を所有できる・いつでも自由に聴くことの出来る」ことによる快楽
は、おそらくもの凄いもので、これから手を切るのは難しいし、また、手を切る必要
もないように思います。これは絶対に必要な快楽です。しかし、ともかく、音楽は、
二〇世紀一杯にわたる工業的・社会的な整備によって、現在では「リスナー」と呼ば
れるような人たちを生み、その人たちが現在の音楽の生産・受容の中心となってい
る。
 「リスナー」にとって音楽とは、自分を中心に同心円状に広がっている、自分の判
断で聴いたり聴かなかったり出来るものです。こういった聴き方・捉え方・音楽への
認識が一般的な世界において、「観客」と「演奏者」の関係を問い直す、といった問
いは、あまり上手く機能しないように思います。「観客」という言葉のなかに、すで
に、劇場に来て、目の前で音楽を経験してくれる人。という前提が含まれているから
です。二〇世紀においては、音楽を聴く人は、そもそも演奏会場に来ない。来たとし
ても、それは自分が前に聞いたものを確かめるためか、19世紀的な「劇場」文化の
余沢に浸りたいか、そのどちらかです。
 しかし、われわれは演奏会場で演奏をします。音楽が生まれる場所は、演奏会場以
外にもたくさんあるのですが、やはり、演奏してそれを聴かなければ生まれない経験
も確実にあるからです。その会場にいる人たちと、われわれはある音楽的時間を得た
い。そして、その時間は、「リスナー」的なものでも、「観客」的なものでもないも
のであって欲しい。同時にそのどちらでもあり、しかし、そのどちらでもないもので
あってほしい。という欲望が、ぼくには強くあります。(いつもいつもそういったス
テージをやっている訳ではありませんが)そして、ぼくは「室内楽コンサート」シ
リーズには、このような「リスナー」と「観客」に、「なぜぼく/わたしはわざわざ
ここにいるのか? 家に帰っても、歩きながらでも、現在は綺麗にパックされたもの
として「音楽」を聴くことが出来るのに…」ということについて、改めて考えさせる
仕掛けがたくさん含まれているように思います。
 ライブに居る人を、「リスナー」でも「観客」でもない状態におくこと。
 そもそも、音が出ているところ(=スピーカー)を見ても、必ずしも(というかほ
とんど)そこに演奏する人がいないという状況で、われわれはいったいいつも何を見
て、何を聞いているのでしょうか? 
 こういった音楽の聴き方が一般的な場合、われわれはライブ会場で、そのまま「観
客」になれるものなのでしょうか? また、音楽家たちは、どこにむけて音楽を作れ
ばいいのでしょうか?
 2日目の「読み」は、演劇的=「観客的」に観られないためにも、ああいったかた
ちが適切だったのだと思います。
 逆に疑問ばかりで、すいません。
 結論は先送りということで。こういったことをぼくは考えている、という感じで
す。
 神村さんのステージ録画ありがとうございました。現場ではウラで照明をやってい
たので、ほとんど見られなかったので嬉しいです。これから見ます。ちょっと話を変
えて、神村さんのステージについて、ダンス批評の立場から、今回の公演の特徴など
書いて頂ければ嬉しいです。あ、観客論も読みたいです。

大谷能生
(2008年5月15日 19:47:39)



(7)木村→大谷

「リスナー」と「観客」の区分、面白いですね。もちろん、このDCで大谷さんとぼくがやろうとしていることのなかに、観客・聴衆という存在を再考したい、再考を促したいということがあります。音楽めあての客とダンスめあての客が混ざり合うという事態は何をもたらすのか、まさに、あの三日間は、そうした目論見が、現実のものとなったわけです。
ぼくは以前、ダンスの観客像を、見る者/見られる者の関係に照らして分類してみたことがあります。
(a)バレエなどのように、支配的な見る者とそれに応える見られる者との関係
(b)モダンダンス(とくに初期の)のように、見る者と見られる者がひとつの小共同体を形成していくような関係
(c)ケージ−カニングハムの試みのように、見る者が作品に対して(作品を構成する諸々のパートが相互に自律しているように)自律した存在であることを目指す関係
(d)ポスト・モダンダンスや暗黒舞踏のように、観客に対して謎めいた状態をダンサーの没入を通して呈示するパフォーマーと観客との関係
前提として付言すると、観客を意識するということは必ずしも観客のニーズに応えるということとイコールではないと考えています。(a)はそうかもしれません。でも、そうではない仕方で、作り手が観客を意識するということは、大いにありえるわけで、網羅しているとは思えないけれども、こうした分類をさしあたりぼくは念頭に置いています(ここに経済的な視点を差し込んでみる必要があるなどと考えたりもしています)。
むしろ「観客論」ということを、芸術を論じる際に持ち出す必要があると思うのは、作り手は「観客を意識する」ことなしにはものが作れないのではないか、ともかくも、とぼくが考えているからです。
ただし、そうですね、前回大谷さんが書いてくれたように、観客をどう設定すればいいか、音楽はダンス以上に難しいわけですよね。一旦録音された演奏は、誰にどう聞かれるのかかなり未知数になっていくわけで、結果としてリスナーは偏在する、なんてことになっていきます。他方、ダンスは良くも悪くも、作り手にも観客側にもまだ録画されたソースがあまり評価されていないジャンルです。二年近く前、康本雅子が「茶番ですよ」という作品をWOWOWの出資で制作し、番組中に放送された、などというケースはきわめてレアなのですから。だから、さしあたりダンスの観客は、舞台を見つめるひとたち、ということで限定するとして、さて、その1人として見た神村恵「ソロ+アルファ」について、ぼくなりの見解を書こうと思います。
イベントの関係者として冷静な判断がしかねるし、また(最少人数で制作をしているため、記録担当を分担していた)ビデオカメラ越しに見ていた立場からの発言ということを分かってもらった上で、読んでもらいたいのだけれど、日本のコンテンポラリー・ダンスという枠内においてもさらには神村恵の過去の公演と照らしてみても、相当冒険的なアイディアが次々と展開されていった、という印象があります。
例えば、ぼくが考えるに今回の作品の核は、身体の静止、だった。通常ダンスというのは、動いている身体にあるもの、と考えられていますよね。動きに起こる抑揚、リズム、そしてそれを受けとめた感触のなかにダンスはある、と。ところがこの公演では、ダンサーは頻繁に静止状態に入りあるポーズのままじっとしています。ときにはじっとしたダンサーの上に黒い布が掛けられ、閉店後のディスプレイに置かれた品物のように身体が覆われたりもしました。単純に観客には疑問が生れるはずです。「それはダンスなのか?」もしこう問われるなら、ぼくは「イエス」とも「ノー」ともいいたい気持ちです。「イエス」というのは、静止した身体にも見る者は運動を感じてしまうという点で。つまり、静止の前後にはやはり運動の状態があったはず、むしろそうでなければ静止は静止として意識さえされないでしょう、静止とはそうした運動の終点でもあり始点でもある。そこには運動が充満している。また、そもそもポーズ自体が運動性を孕んでいる面もある。フォルムには、それ独自の運動感覚が刻印されている。少なくとも、そういう印象を与えるフォルムというものがあるとは言っていいでしょう。ただし、そんなことを言い出すともうダンスに限定しなくてもよい広い地平に出て行ったらいいのかも知れない。美術にだって、そんなフォルムへの問いはいくらでもあるだろう、と。そう、だから「ノー」とも言いたくなるのですよ。神村の静止をもはやダンスの静止などと捉える必要はなく、むしろ美術の問題と考えた方がいいのかも知れない。
また、とくに前半、神村がひとりで踊った時間に顕著だったのですが、どんどんポーズとか、運動のきれはしのようなものをやっていく。その内容もさることながら、こととことの「間」が絶妙だった。ひとつひとつが何かある意味の内に捉えられ、理解されてしまう前にすとんと切り落とす。クールな編集の技法がそこにあった。それは言い換えれば「やめる」ということです。やめる間が絶妙だった。先に触れた「静止」と繋がりそうな、そんなアイディアが、今回は際だっていました。
観客は、それをさしあたりは不可解な行動として受け取る。ぼくはそうでした。不可解さは、奇妙な魅力に反転することがある。シニフィエが特定出来ないシニフィアンというか。「はっ」とさせる、しかしその「はっ」の落としどころが見つからない、だからサスペンディドな状態にさせられる、それが延々と続く。そうした時間・空間をサスペンス化する仕掛けが、ところどころに用意してあって、例えば、相手のダンサーに黒い布を被せた後、神村はじっとそれを見ているのですが、一体彼女のなかでどんな動機が働いているのか皆目見当が付かない、とか。やはり相手のダンサーがポーズを取り替えていく間、脚立に乗った神村が何か粉っぽいものを振らせている場面とか。「ノイズ」というと単純になってしまうのだけれど、読みを宙づりにする仕掛けが実は独特な時間のフォルムを形成している、というのが、神村の観客へのアプローチと言えるのではないか、そうぼくは思っています。
DVDどうですか?手ぶれの多発する未熟なカメラマンによる映像で恐縮ですっ!神村さんについての感想を聞かせてください。

木村覚
(2008年5月17日 14:45:22)



(8)大谷→木村

神村さんのステージ録画見ました。すごい面白かったです。特に二日目のものが。
なんですが、その感想の前に、ちょっと「観客」の話で抜けていたものをフォローし
たいと思います。

音楽の享受者としての「リスナー」と「観客」、というような区分をした訳ですが、
そのほかに、というかこっちの方がライブ会場ではメインなんですが、ライブに来
て、踊ったり唄ったり、酒を飲んだりナンパしたり喧嘩したりといったカタチでその
ライブに関わる、なんといったらいいか、「参加者」という存在が、音楽にはありま
す。当たり前の存在すぎて書き落としていましたが、ある社交の場/歴史の場を作る
ツールとして音楽は基本的に存在していて、それに対する関わり方の違いが、その場
にいる人の態度を決めてゆく。音楽を中心にしたステージにおける、こういった「参
加者」は、木村さんがダンスの観客を区分した4つの分類では、だいたいどのような
ところに位置すると思われますか? また、ダンスの公演・鑑賞において、音楽には
まだ強く残っている、このような、「観客同士が互いに関わりあう・観客同士を互い
に関わり合わせる」力っていうものが、どのように働いているのでしょうか?
 
神村さんのダンスは、ちょっと本人からも伺ったんですが、ぼくには非常に「バレ
エ」的なものに見えました。バレエのレッスンは、足の形、ジャンプの形、手の伸ば
し方その他、基礎となる単位を覚えて使えるようにすることからはじめるんだと思い
ますが、今回の神村さんの公演は、そういった(神村さんにとってのダンスの)最小
単位が次々と、前後にほとんど文脈を構成しないような形で、繰り広げられてゆく。
クラシック・バレエの動き・基礎単位のカタチも、ぼくにとってはその殆どが意味不
明の、きわめてエキゾチックなものにみえるのですが(いきなり爪先立ってクルクル
何回も回ったりとか)、神村さんの動きのひとつひとつも、どこか知らない歴史を
もった国の、ぜんぜん知らない形式で発展して完成した、あるグラン・バレエを構成
するパーツみたいに見えて、でもそれは、構成されるべき元のお話も分からなけれ
ば、それが身体にどう映しこまれて動きになっているのかもわからないし、しかも、
語るための単語みたいな、それ自身では意味がない動きが、それだけ取り上げられ
て、断片として目の前でどんどん提示されてゆく、というのは、めくるめく体験でし
た。不可解ではなく、端的に未知なるもの。どこかにあるぼくが知らない大きなシス
テム、分類法、倫理のあり方が、一言づつあらわれては消える、みたいな感じ? そ
ういった意味では、こととことの「間」みたいなものにはあんまり意識がむかいませ
んでした。「この動きは、どんなお話を語るための素材の一部なんだろう。」と、ぼ
くはこれまでみたことのない民族のオペラのあり方・フォーム・この動きが統合され
てゆく全体像みたいなものを、神村さんの動きから勝手に演繹して想像して、でも、
それはまったく想像できなくて、うーん、もっと続けてみたいなあ、と思った、とい
う訳です。

とりいそぎここまでで。これから快快を見に行って来ます。

大谷能生
(2008年5月23日 12:09:02)
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by directcontact | 2008-05-23 17:09


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