大谷能生より秋山徹次について

DIRECT CONTACT Vol. 2は、9/9-11に行われますが、音楽は秋山徹次をフィーチャーしました。そこで大谷能生が過去に書いた秋山徹次についての文章を、ここに掲載します。



デラックス・コンサート・シリーズ Vol. XXXVII - 好きよ、キャプテン!- The Captain Akiyama Festival

 1964年生まれの秋山徹次は、現在日本で活動している音楽家のなかでも、最も多様なインストゥルメンタルを操るインプロヴァイザーの一人だろう。公式ページにはギター、ターンテーブル、エレクトロニクス、ヴィオラ、自作楽器、という文字が見られるが、秋山にとってこれらの道具はすべて独自の音楽的拡がりを備えた、ばらばらにその共演方法を模索していかなくてはならないパートナーとして受けとめられており、彼はひとつの楽器ごとにあらたなコンセプションとメソッドを見つけるところから、自身の演奏を用意してゆく。アレンジメントやオーケストレーションといったデザインに関する領域とは無関係な秋山の多楽器主義は、手にとった機材の中から鉄や石やゴムといったエレメントを直観的に抽出・再構成する殆ど幻視的な才能に恵まれているところに由来していると思うが、それはさておき、一ヶ月にわたった欧州ツアーの凱旋公演、「キャプテン・アキヤマ・フェスティバル」で彼がどのような演奏をおこなったのかをレポートしてみたい。

 コンサートは3部構成。ファースト・セットはブギをモチーフにしたギター・ソロで、秋山はあまたあるブギ・ギター・チューンのなかから特徴的な一節を慎重に抜粋し、そのパーツを執拗に反復&拡大して演奏することで、ブギ/ブルーズ構造が内包している時間の歪みや係留を顕在化させてゆく。ブギとは、アメリカのポピュラー・ミュージックのなかで最も早く一小節を8で分割した音楽であり、最小単位を倍に上げることで、アメリカ黒人はマーチやワルツといったそれまでのリズム・フィギュアでは実現できなかった4と3のクロス・リズムとそこから生まれるシンコペーションを、はじめてポップスのなかではっきりと演奏することが出来るようになった。アフリカのペンタトニックを12等分平均律に重ね合わせたときに(またはその逆)ブルーズの音程が見出されるように、ポリリズミックなリフレインを8/8拍子のなかに突っ込むことで生まれたブギ独特のリズム・フィギュアは、特にそれがアメリカの共有財産とみなされる以前は、まったく独特な捩れと歪みをもったサウンドを生み出していた。例えば、2拍3連なのか休譜つきの8分音符なのか(リズムの基礎単位を)判断することが出来ないリフレインのかたち。例えば、そのリフレインが頭に戻る際に差し挟まれる、ブルース独特のフレーズが作り出す時間の係留感覚。秋山はブギのなかからそうした場面を抜き出し、その部分を反復させることで、リズムの単位構造自体に歪みと崩れを取り入れたあらたなミニマル・ミュージックを作り出す。今回のコンサートの幕間には、熱によってぐにゃぐにゃに波打たされたレコードがターンテーブルの上で回され、針飛びでループするオーケストラの演奏がインスタレーション作品のように会場内に流されていたのだが、その針が飛んで戻る瞬間の歪みの感覚と実に良く似た跳躍感を、秋山はブギの構造から取り出すことに成功していたと思う。時間の配分法としてのブギー。カントリーの構造によるテクノ・アルバム《BAD TIMING》(ジム・オルーク)と比べてみたくなる、これだけでも興味深い試みだが、さらにここにエレクトリック・ギターという増幅装置が持つサウンドの変化とそのコントロールが加わり、事態は一層複雑な様相を呈する。3連で弦を延々と連打しながら、打点の微妙な変化で6本の弦の干渉具合を変えてゆく演奏など、シンプルだがエレクトリック・ギターにしか行うことの出来ない作業だろう。秋に発売されるというこのスタイルでのアルバムに期待したい。

 セカンド・セットはコンタクト・マイクやターンテーブルのピックアップなどによって物音を増幅して聴かせる演奏。音を取り出してくるシステムは、6本ほどのコンタクト・マイクが接続されたミキサー、逆さにしてテーブルの上に置かれたチャイナ・シンバルにマイクを立てたもの、スリップ・シートを外したターンテーブル1台(ピックアップ・カートリッジを2個用意して適時取り替えながら演奏。しかしその選択の意図は不明)の3種類で、これまでにぼくが見た秋山のセットの中で最もデラックスなものだ。演奏に使われる小物はアルミホイル(ターンテーブルに乗せて針を落とす)、スチール・ホイール、シンバル(同)、ちいさなスプリング類(ピックアップに取り付けてはじく)、ヘア・ブラシ2本(コンタクト・マイクを柄に貼り付けて回転中のターンテーブルに擦りつける)、音叉(ただの鉄の棒か?)、蝋燭(蝋をコンタクト・マイクに垂らす)などなど。テーブル一杯に広げられたそれらのモノのそこかしこにコンタクト・マイクが貼り付けられ、ミキサーで適時チャンネルをオンオフしながら、シンバルの中に投げ込んだコンタクト・マイクの音を立てたマイクで拡大したり、回転するターンテーブルの上にマイクを放置したまま別のセッティングを始めたり、秋山は物質の衝突をひたすら電流に変換しながら、前後の脈絡を欠いた作業を静かな熱狂とともに続けてゆく。1stセットとは対照的に、ここでは音を組織するためのフォームにはまったく注意が払われておらず、物質がエレクトロニクス化される時に生まれる即物的な持続=響きが、組織化=意識化から出来るだけ取りこぼされてあるようなかたちで時間を分割してゆく。秋山はエレクトロニクスの力を借りて、目の前にある物質と自分とのあいだになるべく記憶の働きを介入させないような演奏をおこなおうとするが、人によってこれは錯乱に近い作業に見えるかもしれない。しかし、こうした試みは、記号中心の思考から離れ、人間の行為をあらたな想像力のもとへと解放してゆくきっかけが見られるようにぼくには思われる。「思考するパルスとしての意識を持つ人間こそが微細な物の集合体であり、本来の意味でエレクトロニックな存在である」(秋山徹次)。

 最後のステージは、昨年12月に行われた「インディペンダント・アンダーグラウンド・ミュージック・フェス」でも話題を集めたカルテットが、あらたに「Satanic Abandoned Rock'n'Roll Society」(略称はSARRS/サーズだそうな)とバンド名を得て登場。それぞれの音域を保持しながら濃密なドローン・ミュージックを生み出した前回のサウンドは野々村氏のレポートに詳しいが、今回は宮本尚晃のギターがはっきりとギターと分かる旋律を使って流れを変えたり、ユタカワサキのシンセサイザーが中音域におけるシーケンスの位置付けにいろいろと工夫を凝らしたり(これはあまり上手くいかなかった場面も多かったように思うが)、バンドとしての表現力を拡大しようとする動きが見られた。4人の音色の重なり合いは素晴らしく、是非ライブを続けていって欲しいバンドである。

 ぼくは秋山の演奏を聴くといつも、アンドレ・ブルトンがアーシル・ゴーキーについて語った「混種」という言葉を想う。極度の集中のなかで抽象と具象が交じり合い、コンセプチュアリズムでありマテリアリズムでもあると同時に(そうした選択がそっくりそのまま)個人的な追憶の発露ともなっている、そのような一枚のデッサン。「安易な解決を好むものはここでは骨折損を味わうことだろう。人間的感動がそっくりその中に沈殿しようとする混種のフォルムを受けて立つ勇気がないため、彼らはどんな警告にもかかわらず、これらのコンポジションの中に頑として静物、風景、人物を見分けようとするだろうからである」(いまゴーキーの画集が手元にないため、このブルトンの言葉は宮川淳著作集からの孫引きなのだが……)。ひとつの解読用格子だけでは捕捉することの出来ない秋山徹次は、超現実主義者の肌触りを持つ数少ないミュージシャンだ。「私にとってもっとも強いイメージとは、もっとも高度な気ままさを示しているものであることを、隠さずにいおう。それはつまり、実用的な言語に翻訳するのにもっとも時間のかかるイメージなのであって、たとえば、法外な量の外見的矛盾をふくんでいたり、項のひとつが奇妙にうばわれていたり、センセーショナルな出現を予感させながらもかすかにほぐれるけはいを見せていたり(コンパスの脚の角度をふいにとじてしまったり)、とるにたりない形式的な正当性をそれ自身のなかからみちびいていたり、幻覚的な種類に属していたり……」(アンドレ・ブルトン)。ブギーからミニマル・ミュージックを取り出し、ターンテーブルの上で化粧ブラシとフリー・インプロヴィゼーションを出会わせる秋山徹次の音楽会に、さらに多くの人が足を運んでくれることを希望する。

(2003年7月27日 六本木・Super Deluxe)
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by directcontact | 2008-08-09 08:37


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