黒川直樹「黒鳥グラジュアル」(第二席:大谷)(1)

第3弾は、黒川直樹さんの批評文です。投稿時は、縦組みで応募されました。今回、ウェブ上での公開と言うことになり、方法はあるのかも知れないのですが、書き手の黒川さんに了承をいただいて、横組みヴァージョンを公開することになりました。

□黒川直樹「黒鳥グラジュアル」
黒川直樹
(仮)黒川直樹の妄想劇場

講評
大谷能生
 ある「時間内」で起こった出来事の、その時間の幅、出来事の大きさを、なるべくノイズを拾いながら思考しようとしているのは面白い。しかし、やはり語りかけるための「君」あるいは「あなた」を無理にでも設定しないと、自身の言葉のイメージが茂ってゆく先を確保出来ない、という状態が時折見られ、その分だけ読み手がここに書かれてある空間と時間から取り残されてしまう可能性が高いです。語りかける場合は、語りかける対象が自身の言葉の外にきちんとあることが必要であって、自分だけのものであるかもしれないイメージを、対話の相手を作ることで語りとして成立させようと思っているならばそれは弱い。自分のイメージはそのまま読者にむけて書くべきだ。あと、この長さを読ませるためにはもうちょっと要素が必要。アンデルセンから広がる豊富な作品群を、長回しのフレームとして使うともっと引き締まると思う。

木村覚☆☆☆
黒川氏の文章は、西中氏のと同様いわゆる批評文とは呼びがたい。ただし、「お話」というよりは公演を見たある人物の一夜のルポであり、西中氏の文章とは異なり、文章の主人公(「書き手」のキャラ)が明確になっている。大橋作品を批評するというよりは、大橋作品を見ている自分を記述していく。「記述」といっても、創作への欲望が記すことの生真面目さをときどき上回って、言葉が当の大橋作品から離れていきがち。創作的な言葉の放り投げ方(箇条書きだったり、詩のように段落替えをするところだったり)は、批評の起点を示しているのに展開が回避されているようで残念だ。約二万字という規定を超えた長大な言葉は、作品を丁寧に追走している。その丁寧さは粘り強さでもあって、好感はもてる。けれども、規定範囲内で納めなければならなくなったときにこそ、つまり、追走した結果をそのまま読み手に放り投げるのではなく、あらためてこの作品はいったい何だったんだと整理するときにこそ、黒川氏の力量が発揮できまた試されることだろう。そうして欲しかった。
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by directcontact | 2008-12-17 08:56


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