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大谷能生×木村覚往復書簡(メール)2


(2)大谷→木村

木村さん
 ども。なにはともあれ、お疲れ様でした。

 連日の盛況、ぼくも驚きました。もちろん宣伝その他、これまで以上に広く告知頑張ってのぞんだ訳ですが、正直、千駄ヶ谷のLOOPLINEでおこなわれてきた「室内楽コンサート」のお客さんは、毎回だいたい10人から多くても20人という規模なので、あの大きさで3DAYSは厳しいかな、と思っていました。集客に関してはいつも読めませんが、今回に関しては、神村さんを見に来たお客さんと「室内楽」を見に来たお客さんがほぼ半分半分という印象で、多分、どちらも知っている/これまでにきちんと見たことがある人は極端に少なかったんじゃないかと思います。(木村さんも「室内楽」は未見ですよね?)つまり、客席の状態は企画時に考えていた目論見どおりだった訳で、これは非常に嬉しかった。疑問符だらけのまま、簡単に結論を出そうとするならばステージがそのまま消え去ってしまうようなフラジャイルさの中で、しかし確固として事が進んでゆく時の緊張感こそ、ステージ・アクティングを見る最大の喜びです。

 「室内楽」コンサートについての幾つかのご感想に、ぼくなりに答えてみます。答えるというか、まずは書きながら、前提となるだろういくつかの事柄を自分でも確認してみようと思います。

 「室内楽コンサート」を企画した杉本拓、大蔵雅彦、宇波拓は、九〇年代後半の日本の「即興演奏」による音楽の現場で、自身の音楽的プロフィールを形成しはじめたミュージシャンです。彼らは、90年代後半から00年前後にかけて、それまでに殆ど使われてこなかった、さまざまに極端な音楽的素材を、「即興演奏」のステージに導入しました。その一つとして、「静寂/沈黙/休符(tact)」を挙げることが出来るでしょう。ですが、「静寂」はあくまで素材の一つであり、特権的な要素ではありません。その他さまざまなものがステージに導入され、その結果、「即興演奏」を巡るイメージや言述のあり方が大きく変化することになった。これまでに前提とされてきた、「即興演奏でやるべきこと」の価値に、ここでヒビが入ったのです。

 彼らが身を持って、即興演奏時に使用できる音楽的素材を、そのもっとも弱いものから強いものまで、ほとんどあらゆるものをステージに上げてしまった結果、現在、即興演奏では、「どのような音素材を使ってもステージは成立する(だろう)」ということが前提となっています。これは大いなる自由ですが、もちろん、音楽はそんなに簡単に作られるものではありません。むしろ、何をやっても「音楽」に回収されてしまうような、すべてのものが許されている「一神教」的な現場で、自分の選択でもって音を発するということの意味はあるのか? 自分の選んだこの音は、本当に自分が選んだものなのか? すべてのサウンドとストラクチャアが「鼓膜的な好み」に還元されてしまうような場所で、自身の音楽をどのように組み立ててゆくべきなのか? という問いが、消えないまま、ぼくたちに目の前には広がることになりました。ここから「室内楽」の試みはスタートしているのだと思っています。

 書きかけですが、これから慶応の講義に行かなくてはならないので、一旦送信します。もし出来れば、簡単にでも返信いただけると嬉しいです。

大谷能生
(2008年4月30日 13:15)
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by directcontact | 2008-04-30 22:38 | vol.1神村恵×室内楽コンサート

大谷能生×木村覚往復書簡(メール)3

(3)木村→大谷

大谷さん
そういえば、初日と楽日に出演者の多くの方たちとぼくたちとで打ち上げをしたとき、観客数の話題が出てましたよね。音楽家たちは誰もが「観客0人」を経験しているという話。ダンスの世界では、0人という話は聞いたことがないので興味深かった。

 とくに、PlanBで宇波さんがダンサーや画家たちとやった0人コンサートの話は、大爆笑ものだった。大阪からわざわざやって来た画家が一番かわいそうだった。なぜなら彼は誰1人として観客のいない空間に自分の絵をかけて、それだけだった、と。それ聞いた時は、泣くほど笑いましたが、そもそもどうして画家は一番かわいそうだったのか、などと考えてみたくもなる。もちろんひとつは、踊りもつま弾きもしない「絵を壁に掛ける」という最小の労働しか現場にないことの悲しさもあるでしょう、フィジカル面が発揮出来ない分、観客がいてくれないとそこにいる意味がほんとになくなってしまう。

 ただ、もうひとつ理由がある気がします。つまり音楽は、ミュージシャンが同時にリスナーであるけれども、絵画やダンスは(とくにダンスは)、画家やダンサーが同時にオーディエンスであるとは言いにくい、という違いに、その「かわいそう」は大いに起因しているといえないでしょうか。簡単に言えば、音楽は演奏しているだけで充足出来るところがある。けれども、絵画やダンスは観客を必要とする。単純に自己満足という意味ではないですよ。だって、ダンスにしたって、踊っているだけで気持ちいいものだし、そのフィジカルな自己満足の次元でならば、音楽もダンスも同じです。そうではなくて、音楽はどこか、原理的に演奏と聴くことの間が近くて、演奏者もつねに、音楽の聴き手であり、そうであるばかりか、よい聴き手でなければならない。対してダンスは、舞台の渦中にある限り、ダンサーは自分のダンスをみることが出来ない、その全体を把握することが出来ない。他人の眼がないと自分がいまどういうことをしたのか明確には分からない(ダンスの教室に鏡があるのは、まさにそうした他人の眼が不可欠だからでしょう)。こうした違いが、最初のメールでぼくの書いた「ある」の哲学ときわめてざっくりといった音楽の音楽性に対する、神村的な観客に対して謎を投げかけるダンスのダンス性との違いに反映しているようにも思います。

 あまり大谷さんからの返信にストレートに答えないものになりました。できれば、ぼくの最初のメールに応答してもらえたらと思っているので、小気味よい返答ではなく、すっとぼけてます。おゆるしを。多分、室内楽コンサートの問題はスコアの問題であり、ケージ的なサイレンスの問題ではないけれども、ケージ的なスコアの問題かも知れない、などと思ったりしながら、次の返信を待ちます。

 そうそう。慶應の講義おつかれ。いつか潜ってみよかな。

木村覚
(2008年4月30日 16:05:14)
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by directcontact | 2008-04-30 16:41 | vol.1神村恵×室内楽コンサート

大谷能生×木村覚往復書簡(メール)4

(4)大谷→木村

返信ありがとうございます。いろいろバタバタで、前回は書きかけな感じで送ってしまいましたので、とりあえず前回の大谷話をそのまま継続しますね。ここまでは歴史的な話、つまり前提で、このあとようやっと木村さんの問いに対する事柄に入っていけるのでした。

 00年代以前の即興演奏とは、木村さんの言葉を借りるならば、端的に「主体が明確に存在」している音楽でした。ステージに出て演奏している人間が主体であり、そこでおこなわれている演奏は、聴衆にはルールも目的もわからない、謎めいているが、しかし、確実に何らかの「誘惑的な時間」が生まれえるものだった。このような、「作曲者ではなく、もっぱら演奏者の主体に任せる」形での「即興演奏」が、二〇世紀の芸術作品の中では、比較的早めに成立・自律することが出来たのには幾つかの理由がありますが、今回は省いて先に進むと、こうした「強い」即興演奏を魅力的におこなうプレイヤーは、70年代後半から80年代にかけて大勢あらわれ、現在でも現役で活動しています。また、彼らの演奏を聴き、彼らとの競演を通して、このような領域に自身の活動の根本を据えたその下の世代のミュージシャンもいます。(日本も含めて。話が横滑りしますが、現在20代前半のミュージシャンに、また新たにこうした「強い」演奏を行う、しかも魅力的なミュージシャンがちらほらと現れているようです。ギターの康勝栄、ドラムスの弘中聡とこのあいだ競演したのですが、非常に面白かった)。

 しかし、杉本、大蔵、それに宇波ら(他にもミュージシャンの名前を挙げるべきなのですが、とりあえずここでは省略します)が、「即興演奏における、音楽的素材の拡張。およびそこから作られる時間構造の複数化」を押し進めたことによって直面せざるを得なくなったのは、「もはや主体がどのようなものであっても、演奏はそれなりに成立してしまう」という事態でした。大きく話を端折りますが、ここから、これまで自明とされてきた「演奏者=主体(それも、強い意志を持った)」という即興演奏の前提に対する問い直しがはじまります。

 まず疑われたのは、というか、はじめて見直されることになったのは、これまで「主体」を構成するとされてきた二要素、「演奏者」と「楽器」との関係性についてです。(ダンスと異なり?)この二つの間にはさまざまな関係性・距離を導入することが出来ます。特に電子楽器においては、それぞれが完全に自律した系を成すことも出来る。こうした距離における実験のなかから、単なる「他律」でも「自発」でもない時間が生まれてくるのですが、「室内楽コンサート」シリーズにおいては、ここで得られた成果を元手にして、さらに逆の目に掛け金が置かれている。
 音楽が、演奏者と楽器との関係性から生まれてくる、ということは分かった。では、そこで、音楽の実質を形成している「音」は、一体何と関係して「音楽」を生み出しているのか? 「音」が何と、どのような関係を結んだ時に、われわれは「音楽的経験」を得た、と感じるのか。

 「室内楽コンサート」シリーズは、素材としての音を明確に設定し、演奏者に厳密な指示を与えることによって、「音」を「演奏者」でも「楽器」でもない「他の何か」と関係付けようとする。これは杉本さんと飲み屋で話していたことですが、たとえば、「音」の横に「蕎麦」を置く。音と立ち食い蕎麦屋のメニューを関係付ける。ここに生まれるものは何か? バカバカしい話です。バカバカしい話ですが、こうした状態における「主体」あるいは「ある」の哲学とはどういったものなのでしょうか?また、こうした試みを成り立たせる、成り立たせている「音楽における観客論」というものには、確かに興味があります。

 「室内楽コンサート」を第一弾に選んだのは、PA設備などにそれほど気を使わなくていい、という物理的な条件もありましたが、まず端的に、ぼくがここ2,3年で経験した音楽コンサートの中で、もっとも「能動的に観客に聴くことを要求する」音楽だったからです。この音楽は観客を振り回してはくれません。が、このコンサートは、ここで切り落とされているもの、または逆に、彼らがここでコンタクトをとっている「不在のもの」に対する想像力を充分に刺激してくれるのではないか、と思っていました。とりあえず、ここまでで送信します。

大谷能生
(2008年5月1日 12:14:41)
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by directcontact | 2008-04-25 22:42 | vol.1神村恵×室内楽コンサート

大谷能生×木村覚往復書簡(メール)5

(5)木村→大谷

 なるほど、いろいろわかってきました。

 大谷さんの整理に従うと、即興演奏=「主体が明確に存在」している音楽で、そうした「演奏者=主体(強い意志をもった)」への問い直しを画策しているのが室内楽コンサートである。そして、その問い直しは、演奏者の楽器との関係にさまざまな(自発的、他律的、あるいは楽器が演奏者から離れ自律的になる)可能性があることの確認を導いた。この複数の可能性が存在することは「では、音楽が成立するのは何によってなのか?」という問いへと進む。「なんでもあり」なのか?例えば、「音」と「蕎麦のメニュー」の関係は音楽を成立させないのか/されるのか?

 そうした音楽の成立可能性への探究が、演奏者側にとって、大きな課題だったことは想像出来ます。「自分は一体何をやっているのか?」という疑問が眩暈のようにしてあふれてきてしまう、そうした事態が、「なんでもあり」(?)という現状に際してあったろう、と思うからです。存在論的であるのみならず、一種の実存的な問いが噴出してきたのでは、と大谷さんのメールを読むことで推測出来ます。

 さて、ぼくが大谷さんに一貫して問いかけているのは、演奏者と音楽の関係は、それらと観客との関係へ問いをひらいていくことによって(のみ)明確になるのではないか、ということです。観客も実存的な問いに苛まれるわけです、「なぜぼく/わたしはここにいるのか?」と。

 ところで、DCに来てくれたぼくの知人たちは、口をそろえて室内楽コンサートは「ケージ以後の音楽なの?」という解釈をぼくに投げかけてきます。「なつかしい」と口にする者もいます。彼らの多くは、室内楽コンサートを見た/聴いたのがはじめてなのはもちろんのこと、現代音楽史が丁寧に理解出来ている人物たちではありません。なので、当然、大いなる誤解というか、荒っぽいコンテクスト化によってそうした「ケージ」というキーワードを発しているのは確かです。けれども、観客が、(室内楽コンサートの)新しい観客がそうした不理解とはいえ何らかの理解を積み重ねてゆく。観客というのは、ぼくを含めて、どうしようもなく、コンテクスト化しながら対象を咀嚼しようとするものですからね。「能動的に観客に聴くことを要求する」はずの音楽が、短絡的な理解、消極的な消費しかもたらさないとしたら、とてももったいないことです。けれども、そういう可能性にひらかれてしまっていることは、芸術的表現の宿命というべきものでもあるでしょう。

 観客は、自律的な一主体として自由で能動的な聴取を積極的にしたいと思う前に、自分をコントロールして欲しい、ドライヴして欲しいと思うのでは。そうした観客に対してどんな仕掛けが用意出来るのか?もちろん、観客の被支配の欲求をはぐらかすことも可能な仕掛けのひとつだと思うんですけどね。

 で、少し具体的な話をした方がいいと思うんですが、例えば、二日目の2曲目「Three Speakers」(3人のプレイヤーが楽譜=台本を読む作品)は、言葉(恐らくほとんどは印刷された文章でしょう)を発する/読むことで構成される曲でした、ぼくはこれは「言葉」へのアプローチという枠を設定してみたばあい、やや素朴だと正直思いました。楽器と演奏者との関係(ここでは、身体とその主体との関係)ではなく、ここで重要だったのは、楽譜と演奏者の関係だったと思いますが、楽譜(言葉)を読む(on)/読まない(off)という関係のみが(あるいは複数の読み手の声が交差するという事態が)、その時間を生成させていた。そこにどんな読み方がありえたのか、というパラメーターはなかった。それがないということが、ある種の「ピュアネス」(清さ、潔さ)を感じさせるのですが、つまり一端、そこに足を踏み込んでしまうと音楽というよりも演劇の問題へと事柄が一気に滑っていくでしょうから、それをしない、という選択は賢明かもしれない。けれども、多少、今日の演劇の状況を観察している者として見ると、やはりいま検討するにたるトライアルが抜けてしまっている、という気持ちになってしまうのです。例えば、チェルフィッチュが、言葉を発する時に、身体がどう動いてしまっているのかという問いをいま投げかけている。最近の彼らの公演「フリータイム」は、ぼくのなかで演劇という以上に音楽的に見えた。言葉を素材に、身体がしているのは演技(存在しないものをあたかも存在するように見せる行為)ではなく演奏(楽譜の解釈を黙々と繊細に遂行する行為)というべきものだったように見えました。

 ぼくは先に書いたように、まさに音楽的なマトリクスがしっかり頭にない人間なので、演劇のコンテクストへとスライドしてしまうのかも知れません。ただ、こうしたクロッシングこそ、DCの試みそのものだと思うので、もう少し付き合って下さい。

 三日目に演奏された3曲については、ぼくはとても面白く見ました。その理由の多くは、10人以上のミュージシャンが集まって、非常にストイックな(なんら主体性を発揮しない)演奏をしているという誠に「ばかばかしい」様子が、おっかしくて、室内楽コンサートが向かう「音楽のわからなさ」あるいは「不在」への問いはそのとき、非常に滑稽な相貌を見せていた。自己批評的だった/そう見えた、といえるかもしれないです。とくに、3曲目の曲で、演奏者のストップウォッチを凝視する様が、とくに「カラ」振りの指揮者によって(40分ほどの演奏中、演奏者の誰も従わず、演奏にほぼなにも貢献していない指揮者のパフォーマンスは、そのむなしさによってまたその執念の持続によって爆笑ものでした)その事態がクローズアップさせられていく。とても効果的な演出がそこにはあった、と思いました。

 次に、神村さんの公演についてももう少し具体的に触れなければと思いますが、ひとまず、大谷さんにバトンを渡します。

木村覚
(2008年5月2日 9:29:00)
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by directcontact | 2008-04-20 22:44 | vol.1神村恵×室内楽コンサート

vol.1 詳細!

『DIRECT CONTACT VOL.1』の詳細です。
OPEN19:30  START20:00
Charge 2,000

会場:TEMPORARY CONTEMPORARY、月島 
(都営大江戸線・東京メトロ有楽町線 月島駅7番出口より徒歩2分)

【公演演目】

●神村恵 『ソロ+アルファ』
23日〜25日 出演:神村恵、他

●室内楽コンサート・レトロスペクティヴ 2006〜2008
23日 演奏曲目
『backup (for koto)』 作曲 大蔵雅彦
『Tom & Jerry (for drums and keyboard)』 作曲 杉本拓
曲目未定 作曲 宇波拓
出演:塚本真一 イトケン 水谷隆子 上江州佑布子

24日 演奏曲目
『red scarf, red curtain (for violin and two electric guitars)』 作曲 大蔵
雅彦
『Three speakers』 作曲 杉本拓
『不在について』 作曲 宇波拓
出演:秋山徹次 千葉広樹 江崎将史 中尾勘二 泉智也 杉本拓 宇波拓


25日 演奏曲目
『outfold (for harp and ensemble)』 作曲 大蔵雅彦
曲目未定 作曲 杉本拓
曲目未定 作曲 宇波拓
出演:関島岳朗 イトケン 竹田大純 佳村萠 大島輝之 中村としまる 高良久美
子 秋山徹次 江崎将史 中尾勘二 木下和重 上江州佑布子 服部玲治 杉本拓 
宇波拓 大蔵雅彦

【出演者/演目プロフィール】
◎ 神村恵
ダンサー・振付家。幼少よりバレエを学ぶ。2000年より1年間、オランダにてダンスを学ぶ。04年よりソロ作品を発表し始め、様々なスペースで上演する。06年より、神村恵カンパニーとしての活動も開始。08年2月、カンパニー3作品目となる「どん底」をBankART1929 Yokohamaにて上演。ソロ活動では07年に、イタリア、韓国にて公演に参加。08年4月、トヨタコレオグラフィーアワード2008選考会に参加する。その動きは本当に必要なのかという疑いをもとに、カンパニー、ソロともに活動を続けている。

◎ 室内楽コンサート
2006年からスタートした「各人の作曲作品を演奏する」企画である『室内楽コンサート』シリーズのレトロスペクティヴ企画です。長期にわたって国内外で即興演奏家として活動を続けてきた杉本拓、大蔵雅彦、宇波拓による、音楽をさらに広い構造から捉える実験の結果とは? 世界初演有。
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by directcontact | 2008-04-17 21:47 | vol.1神村恵×室内楽コンサート