今日は2日目、明日は3日目

DIRECT CONTACT vol.2が昨日の晩、はじまりました。

制作がいうのも変ですが、秋山・大橋の二作品とも非常にクオリティが高い。大橋可也&ダンサーズ「BLACK SWAN」は、明らかにいままでの日本の「コンテンポラリーダンス」という枠では収まることのできない、「未知の何か」です。秋山作品は、、、ぼくがくだくだと書くのは蛇足でしょう、必見です。

公演というのは蓋をあけてみないと分からない面があって、いまにして、ああもっと宣伝しておけばと思っています。見ないのはちょっともったいない。この二時間で2000円は安いと思う。それでも、2000円きついという人は、批評文執筆にエントリーしてくだされば、招待します。



木村(9/10)
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# by directcontact | 2008-09-10 09:30

大橋可也&ダンサーズ「明晰の鎖」をふり返る

9/9-11に行われるDC2、今回は、批評文を募集します。奮ってご投稿下さい!

さて、DC2は、ダンスに大橋可也&ダンサーズをフィーチャーします。そこで、今年2月に上演された「明晰の鎖」をふり返ってみようと思います。木村も大谷もこの作品についてコメントを残しています。


「明晰の鎖Chain of Clarity [Excerpt 1]」

「明晰の鎖Chain of Clarity [Excerpt 2]」

木村覚「明晰の鎖」について(Blog: Sato Site on the Web Sideの記事より)
終幕が近づく頃、2時間弱という今日の日本人によるダンス公演としては相当長い部類に入るだろうこの作品を、ぼくはずっと続いていてもいい、いや、ずっと続いていてくれと思った(願った)。それが答えだ。きわめてユニークでしかし明らかに純粋にダンスであることを目論んだ作品。……


大谷能生「明晰の鎖」について(レビューハウスラジオより)
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# by directcontact | 2008-08-21 08:39

【今回のDCではReviewを募集します!】


【今回のDCではReviewを募集します!】

秋山徹次「Lost Weekdays」×大橋可也&ダンサーズ「Black Swan」をめぐる批評文を募集します。舞台批評の言葉は、文芸批評、美術批評、映画批評などに比べまだまだ決定的な形式が存在せず、その分、さまざまな可能性に開かれている状態です。思いがけない角度から投げかける鮮烈な言葉こそ、舞台芸術を活性化する何よりのカンフル剤ではないか!と考えます。舞台批評のユニークな逸材を発掘したいということ、演奏表現、身体表現に言葉の表現者を衝突させたいということが、この企画に向けたぼくたちの思いです。奮ってご応募下さい!!

〈応募要項〉
・ 字数は4000字程度
・ 応募資格はとくにありません。雑誌に寄稿歴のある方もない方も、学生も社会人も問いません。すでに批評活動している方も歓迎します。
・ 企画の大谷と木村が厳正な審査の末、賞(賞金付き)を差し上げます。また、なんらかの掲載媒体を探して奔走するつもりです。
・批評文を寄稿する意志のある方は、招待致します。この件については、イベント当
日までに応募先のメールアドレスにご連絡下さい。
・ 締め切りは、9/30。
・ 応募先は、info@space-tc.comまで。氏名、連絡先、批評文のタイトルを明記の上、本文をお送り下さい。
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# by directcontact | 2008-08-18 23:00

大谷能生より秋山徹次について

DIRECT CONTACT Vol. 2は、9/9-11に行われますが、音楽は秋山徹次をフィーチャーしました。そこで大谷能生が過去に書いた秋山徹次についての文章を、ここに掲載します。



デラックス・コンサート・シリーズ Vol. XXXVII - 好きよ、キャプテン!- The Captain Akiyama Festival

 1964年生まれの秋山徹次は、現在日本で活動している音楽家のなかでも、最も多様なインストゥルメンタルを操るインプロヴァイザーの一人だろう。公式ページにはギター、ターンテーブル、エレクトロニクス、ヴィオラ、自作楽器、という文字が見られるが、秋山にとってこれらの道具はすべて独自の音楽的拡がりを備えた、ばらばらにその共演方法を模索していかなくてはならないパートナーとして受けとめられており、彼はひとつの楽器ごとにあらたなコンセプションとメソッドを見つけるところから、自身の演奏を用意してゆく。アレンジメントやオーケストレーションといったデザインに関する領域とは無関係な秋山の多楽器主義は、手にとった機材の中から鉄や石やゴムといったエレメントを直観的に抽出・再構成する殆ど幻視的な才能に恵まれているところに由来していると思うが、それはさておき、一ヶ月にわたった欧州ツアーの凱旋公演、「キャプテン・アキヤマ・フェスティバル」で彼がどのような演奏をおこなったのかをレポートしてみたい。

 コンサートは3部構成。ファースト・セットはブギをモチーフにしたギター・ソロで、秋山はあまたあるブギ・ギター・チューンのなかから特徴的な一節を慎重に抜粋し、そのパーツを執拗に反復&拡大して演奏することで、ブギ/ブルーズ構造が内包している時間の歪みや係留を顕在化させてゆく。ブギとは、アメリカのポピュラー・ミュージックのなかで最も早く一小節を8で分割した音楽であり、最小単位を倍に上げることで、アメリカ黒人はマーチやワルツといったそれまでのリズム・フィギュアでは実現できなかった4と3のクロス・リズムとそこから生まれるシンコペーションを、はじめてポップスのなかではっきりと演奏することが出来るようになった。アフリカのペンタトニックを12等分平均律に重ね合わせたときに(またはその逆)ブルーズの音程が見出されるように、ポリリズミックなリフレインを8/8拍子のなかに突っ込むことで生まれたブギ独特のリズム・フィギュアは、特にそれがアメリカの共有財産とみなされる以前は、まったく独特な捩れと歪みをもったサウンドを生み出していた。例えば、2拍3連なのか休譜つきの8分音符なのか(リズムの基礎単位を)判断することが出来ないリフレインのかたち。例えば、そのリフレインが頭に戻る際に差し挟まれる、ブルース独特のフレーズが作り出す時間の係留感覚。秋山はブギのなかからそうした場面を抜き出し、その部分を反復させることで、リズムの単位構造自体に歪みと崩れを取り入れたあらたなミニマル・ミュージックを作り出す。今回のコンサートの幕間には、熱によってぐにゃぐにゃに波打たされたレコードがターンテーブルの上で回され、針飛びでループするオーケストラの演奏がインスタレーション作品のように会場内に流されていたのだが、その針が飛んで戻る瞬間の歪みの感覚と実に良く似た跳躍感を、秋山はブギの構造から取り出すことに成功していたと思う。時間の配分法としてのブギー。カントリーの構造によるテクノ・アルバム《BAD TIMING》(ジム・オルーク)と比べてみたくなる、これだけでも興味深い試みだが、さらにここにエレクトリック・ギターという増幅装置が持つサウンドの変化とそのコントロールが加わり、事態は一層複雑な様相を呈する。3連で弦を延々と連打しながら、打点の微妙な変化で6本の弦の干渉具合を変えてゆく演奏など、シンプルだがエレクトリック・ギターにしか行うことの出来ない作業だろう。秋に発売されるというこのスタイルでのアルバムに期待したい。

 セカンド・セットはコンタクト・マイクやターンテーブルのピックアップなどによって物音を増幅して聴かせる演奏。音を取り出してくるシステムは、6本ほどのコンタクト・マイクが接続されたミキサー、逆さにしてテーブルの上に置かれたチャイナ・シンバルにマイクを立てたもの、スリップ・シートを外したターンテーブル1台(ピックアップ・カートリッジを2個用意して適時取り替えながら演奏。しかしその選択の意図は不明)の3種類で、これまでにぼくが見た秋山のセットの中で最もデラックスなものだ。演奏に使われる小物はアルミホイル(ターンテーブルに乗せて針を落とす)、スチール・ホイール、シンバル(同)、ちいさなスプリング類(ピックアップに取り付けてはじく)、ヘア・ブラシ2本(コンタクト・マイクを柄に貼り付けて回転中のターンテーブルに擦りつける)、音叉(ただの鉄の棒か?)、蝋燭(蝋をコンタクト・マイクに垂らす)などなど。テーブル一杯に広げられたそれらのモノのそこかしこにコンタクト・マイクが貼り付けられ、ミキサーで適時チャンネルをオンオフしながら、シンバルの中に投げ込んだコンタクト・マイクの音を立てたマイクで拡大したり、回転するターンテーブルの上にマイクを放置したまま別のセッティングを始めたり、秋山は物質の衝突をひたすら電流に変換しながら、前後の脈絡を欠いた作業を静かな熱狂とともに続けてゆく。1stセットとは対照的に、ここでは音を組織するためのフォームにはまったく注意が払われておらず、物質がエレクトロニクス化される時に生まれる即物的な持続=響きが、組織化=意識化から出来るだけ取りこぼされてあるようなかたちで時間を分割してゆく。秋山はエレクトロニクスの力を借りて、目の前にある物質と自分とのあいだになるべく記憶の働きを介入させないような演奏をおこなおうとするが、人によってこれは錯乱に近い作業に見えるかもしれない。しかし、こうした試みは、記号中心の思考から離れ、人間の行為をあらたな想像力のもとへと解放してゆくきっかけが見られるようにぼくには思われる。「思考するパルスとしての意識を持つ人間こそが微細な物の集合体であり、本来の意味でエレクトロニックな存在である」(秋山徹次)。

 最後のステージは、昨年12月に行われた「インディペンダント・アンダーグラウンド・ミュージック・フェス」でも話題を集めたカルテットが、あらたに「Satanic Abandoned Rock'n'Roll Society」(略称はSARRS/サーズだそうな)とバンド名を得て登場。それぞれの音域を保持しながら濃密なドローン・ミュージックを生み出した前回のサウンドは野々村氏のレポートに詳しいが、今回は宮本尚晃のギターがはっきりとギターと分かる旋律を使って流れを変えたり、ユタカワサキのシンセサイザーが中音域におけるシーケンスの位置付けにいろいろと工夫を凝らしたり(これはあまり上手くいかなかった場面も多かったように思うが)、バンドとしての表現力を拡大しようとする動きが見られた。4人の音色の重なり合いは素晴らしく、是非ライブを続けていって欲しいバンドである。

 ぼくは秋山の演奏を聴くといつも、アンドレ・ブルトンがアーシル・ゴーキーについて語った「混種」という言葉を想う。極度の集中のなかで抽象と具象が交じり合い、コンセプチュアリズムでありマテリアリズムでもあると同時に(そうした選択がそっくりそのまま)個人的な追憶の発露ともなっている、そのような一枚のデッサン。「安易な解決を好むものはここでは骨折損を味わうことだろう。人間的感動がそっくりその中に沈殿しようとする混種のフォルムを受けて立つ勇気がないため、彼らはどんな警告にもかかわらず、これらのコンポジションの中に頑として静物、風景、人物を見分けようとするだろうからである」(いまゴーキーの画集が手元にないため、このブルトンの言葉は宮川淳著作集からの孫引きなのだが……)。ひとつの解読用格子だけでは捕捉することの出来ない秋山徹次は、超現実主義者の肌触りを持つ数少ないミュージシャンだ。「私にとってもっとも強いイメージとは、もっとも高度な気ままさを示しているものであることを、隠さずにいおう。それはつまり、実用的な言語に翻訳するのにもっとも時間のかかるイメージなのであって、たとえば、法外な量の外見的矛盾をふくんでいたり、項のひとつが奇妙にうばわれていたり、センセーショナルな出現を予感させながらもかすかにほぐれるけはいを見せていたり(コンパスの脚の角度をふいにとじてしまったり)、とるにたりない形式的な正当性をそれ自身のなかからみちびいていたり、幻覚的な種類に属していたり……」(アンドレ・ブルトン)。ブギーからミニマル・ミュージックを取り出し、ターンテーブルの上で化粧ブラシとフリー・インプロヴィゼーションを出会わせる秋山徹次の音楽会に、さらに多くの人が足を運んでくれることを希望する。

(2003年7月27日 六本木・Super Deluxe)
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# by directcontact | 2008-08-09 08:37

DIRECT CONTACT Vol. 2開催!!!!

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DIRECTCONTACT Vol.2
すべて平等に感じるため、同じ空間に置かれた演奏行為と身体表現

2008.09.09~09.11
OPEN 19:30 START 20:00
Charge 2,000円
会場:TEMPORARY CONTEMPORARY(中央区月島1-14-7旭倉庫2F)

PROGRAM


○大橋可也&ダンサーズ 新作『Black Swan』

09.09~09.11

【出演者、スタッフ】

出演:皆木正純、前田尚子、多田汐里、山田歩
振付:大橋可也
サウンド:牛川紀政

【大橋可也&ダンサーズ プロフィール】

「ダンスとは何か」という問いに立ち向かうことを活動の主題としているダンスカンパニー。その作品は舞踏の振付方法を援用して現代社会における身体のあり方を追求している。
1999年、結成。2000年、「バニョレ国際振付賞2000ヨコハマプラットフォーム」に出場するも、出演者が全裸であるという理由で非公開の審査となる。以降、活動を休止。2003年、活動を再開。2005年、ニューヨークの代表的なアートスペース「The
Kitchen」に招聘される。2008年12月28日には新国立劇場小劇場にて『帝国、エアリアル』を発表予定。

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○秋山徹次 3DAYS CONCERT 『Lost Weekdays』

【出演】

Day 1 (9/9) : 「Don't Forget to Boogie extended」
出演:秋山徹次(electric "boogie" guitar)

Day 2 (9/10):「The Stake (for acoustic guitar and electronics)」
出演:秋山徹次(acoustic guitar)、中村としまる(no-input mixing board)

Day 3 (9/11) :「U-Day」
出演:Satanic Abandoned Rock & Roll Society
[秋山徹次(dobro/high frequency)、宮本尚晃(electric guitar/high-mid frequency)、TAMARU(electric bass/low-mid frequency)、ユタカワサキ(synthesizer/low frequency)]


【秋山徹次 プロフィール】

秋山徹次/Tetuzi AKIYAMA(ギター、その他の楽器による即興および非即興音楽
演奏家)
1964年4月13日東京生まれ。

ギターという楽器の持つ特質に、自身の欲求をミニマルかつストレートな形で加
えていくことによる、原始的で即物的な意味合いを含んだ演奏を得意とする。ミ
クロからマクロに至る音量を、繊細に、ときには大胆にコントロールし、身体の
電子化を試る。

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【企画】大谷能生、木村覚、長嶺一徹、タマダプロジェクトコーポレーション

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【予約・会場お問合せ】

info@space-tc.com
03-3533-0880(アートバンク)
(お名前、人数、お日にちを公演前日までにお知らせください。折り返し予約番号をご連絡いたします。)

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【今回のDCではReviewを募集します!】

舞台と音楽をさらに多くの「言葉」と衝突させるために、2つのパフォーマンスをめぐっての4000字程度の批評文を募集します。資格は問いません(学生も雑誌寄稿者もそうでない方も歓迎します)。大谷・木村が厳正に議論した後、応募いただいた批評の幾つかに賞(賞金付き)を差し上げ、なんらかの掲載媒体を探して奔走します。応募先のことなど詳細は、DC専用ブログ(http://dcdc.exblog.jp/)をごらんください。

この件に関しては、詳細近日お知らせします。しばしお待ちを!
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# by directcontact | 2008-08-08 08:45

大谷能生×木村覚往復書簡(メール)6〜8

しばらく間が空きましたが、大谷×木村往復書簡、6〜8をアップします。
まとめてこの3通をしばらくは下記のように連続した状態で、ひとつの記事にしておきます。どうぞ、ご覧下さい。



−−−−−−−−−−−−−−−−−
(6)大谷→木村

ずいぶん間があいてしまってすいません。再開しましょう。あ、先日杉本さんとお会
いしたんですが、「ライブが終った後に<あれはなんだったのか?>と、いろいろと
書いてもらえるのは嬉しいので、ぜひ続けてください」とのことでした。続けましょ
う。
 木村さんの返信から、大谷への問いの部分を反復してみます。

 <ぼくが大谷さんに一貫して問いかけているのは、演奏者と音楽の関係は、それら
と観客との関係へ問いをひらいていくことによって(のみ)明確になるのではない
か、ということです。観客も実存的な問いに苛まれるわけです、「なぜぼく/わたし
はここにいるのか?」と。

 これは難しい問いですね。とりあえず、ぼく個人にとって「音楽において、観客と
は?」ということを考えてみたいと思います。
 「観客」という言葉は、パフォーマンスの現場に立会い、目の前で演じられている
行為を、その行為者と同じ時間のなかで経験して、しかるのち、その経験をなんらか
の作品体験として受け止める人、のことを指していると思います。そして、舞台やダ
ンスにおいては、その享受者は、基本的にみな「観客」という言葉できちんと指し示
して対象化することが出来るように思います。
 これに対して、音楽においては、「リスナー」という言葉があります。この言葉が
いつごろから使われ始めたのかについては確認していませんが、しかし、この言葉に
は確実に、「観客」という言葉だけでは指し示すことの出来ない、ある音楽の聴き方
の提示が含まれているように思います。
 「リスナー(Listner)」は、もちろん観客でもありますが、彼や彼女が音
楽として触れるものの多くは、はじめからCDやMP3といったメディアを経由し
た、データ化された、反復することの出来る、その大体は値段の付いた音響の持続で
す。「リスナー」はそういったパッケージングされ終わった音楽作品を購入し、現地
でその音楽を生産した演奏者や作曲者とは無関係に、自分の所有物として、自分の好
きな方法で扱うことが出来ます。
 こうした「音楽を所有できる・いつでも自由に聴くことの出来る」ことによる快楽
は、おそらくもの凄いもので、これから手を切るのは難しいし、また、手を切る必要
もないように思います。これは絶対に必要な快楽です。しかし、ともかく、音楽は、
二〇世紀一杯にわたる工業的・社会的な整備によって、現在では「リスナー」と呼ば
れるような人たちを生み、その人たちが現在の音楽の生産・受容の中心となってい
る。
 「リスナー」にとって音楽とは、自分を中心に同心円状に広がっている、自分の判
断で聴いたり聴かなかったり出来るものです。こういった聴き方・捉え方・音楽への
認識が一般的な世界において、「観客」と「演奏者」の関係を問い直す、といった問
いは、あまり上手く機能しないように思います。「観客」という言葉のなかに、すで
に、劇場に来て、目の前で音楽を経験してくれる人。という前提が含まれているから
です。二〇世紀においては、音楽を聴く人は、そもそも演奏会場に来ない。来たとし
ても、それは自分が前に聞いたものを確かめるためか、19世紀的な「劇場」文化の
余沢に浸りたいか、そのどちらかです。
 しかし、われわれは演奏会場で演奏をします。音楽が生まれる場所は、演奏会場以
外にもたくさんあるのですが、やはり、演奏してそれを聴かなければ生まれない経験
も確実にあるからです。その会場にいる人たちと、われわれはある音楽的時間を得た
い。そして、その時間は、「リスナー」的なものでも、「観客」的なものでもないも
のであって欲しい。同時にそのどちらでもあり、しかし、そのどちらでもないもので
あってほしい。という欲望が、ぼくには強くあります。(いつもいつもそういったス
テージをやっている訳ではありませんが)そして、ぼくは「室内楽コンサート」シ
リーズには、このような「リスナー」と「観客」に、「なぜぼく/わたしはわざわざ
ここにいるのか? 家に帰っても、歩きながらでも、現在は綺麗にパックされたもの
として「音楽」を聴くことが出来るのに…」ということについて、改めて考えさせる
仕掛けがたくさん含まれているように思います。
 ライブに居る人を、「リスナー」でも「観客」でもない状態におくこと。
 そもそも、音が出ているところ(=スピーカー)を見ても、必ずしも(というかほ
とんど)そこに演奏する人がいないという状況で、われわれはいったいいつも何を見
て、何を聞いているのでしょうか? 
 こういった音楽の聴き方が一般的な場合、われわれはライブ会場で、そのまま「観
客」になれるものなのでしょうか? また、音楽家たちは、どこにむけて音楽を作れ
ばいいのでしょうか?
 2日目の「読み」は、演劇的=「観客的」に観られないためにも、ああいったかた
ちが適切だったのだと思います。
 逆に疑問ばかりで、すいません。
 結論は先送りということで。こういったことをぼくは考えている、という感じで
す。
 神村さんのステージ録画ありがとうございました。現場ではウラで照明をやってい
たので、ほとんど見られなかったので嬉しいです。これから見ます。ちょっと話を変
えて、神村さんのステージについて、ダンス批評の立場から、今回の公演の特徴など
書いて頂ければ嬉しいです。あ、観客論も読みたいです。

大谷能生
(2008年5月15日 19:47:39)



(7)木村→大谷

「リスナー」と「観客」の区分、面白いですね。もちろん、このDCで大谷さんとぼくがやろうとしていることのなかに、観客・聴衆という存在を再考したい、再考を促したいということがあります。音楽めあての客とダンスめあての客が混ざり合うという事態は何をもたらすのか、まさに、あの三日間は、そうした目論見が、現実のものとなったわけです。
ぼくは以前、ダンスの観客像を、見る者/見られる者の関係に照らして分類してみたことがあります。
(a)バレエなどのように、支配的な見る者とそれに応える見られる者との関係
(b)モダンダンス(とくに初期の)のように、見る者と見られる者がひとつの小共同体を形成していくような関係
(c)ケージ−カニングハムの試みのように、見る者が作品に対して(作品を構成する諸々のパートが相互に自律しているように)自律した存在であることを目指す関係
(d)ポスト・モダンダンスや暗黒舞踏のように、観客に対して謎めいた状態をダンサーの没入を通して呈示するパフォーマーと観客との関係
前提として付言すると、観客を意識するということは必ずしも観客のニーズに応えるということとイコールではないと考えています。(a)はそうかもしれません。でも、そうではない仕方で、作り手が観客を意識するということは、大いにありえるわけで、網羅しているとは思えないけれども、こうした分類をさしあたりぼくは念頭に置いています(ここに経済的な視点を差し込んでみる必要があるなどと考えたりもしています)。
むしろ「観客論」ということを、芸術を論じる際に持ち出す必要があると思うのは、作り手は「観客を意識する」ことなしにはものが作れないのではないか、ともかくも、とぼくが考えているからです。
ただし、そうですね、前回大谷さんが書いてくれたように、観客をどう設定すればいいか、音楽はダンス以上に難しいわけですよね。一旦録音された演奏は、誰にどう聞かれるのかかなり未知数になっていくわけで、結果としてリスナーは偏在する、なんてことになっていきます。他方、ダンスは良くも悪くも、作り手にも観客側にもまだ録画されたソースがあまり評価されていないジャンルです。二年近く前、康本雅子が「茶番ですよ」という作品をWOWOWの出資で制作し、番組中に放送された、などというケースはきわめてレアなのですから。だから、さしあたりダンスの観客は、舞台を見つめるひとたち、ということで限定するとして、さて、その1人として見た神村恵「ソロ+アルファ」について、ぼくなりの見解を書こうと思います。
イベントの関係者として冷静な判断がしかねるし、また(最少人数で制作をしているため、記録担当を分担していた)ビデオカメラ越しに見ていた立場からの発言ということを分かってもらった上で、読んでもらいたいのだけれど、日本のコンテンポラリー・ダンスという枠内においてもさらには神村恵の過去の公演と照らしてみても、相当冒険的なアイディアが次々と展開されていった、という印象があります。
例えば、ぼくが考えるに今回の作品の核は、身体の静止、だった。通常ダンスというのは、動いている身体にあるもの、と考えられていますよね。動きに起こる抑揚、リズム、そしてそれを受けとめた感触のなかにダンスはある、と。ところがこの公演では、ダンサーは頻繁に静止状態に入りあるポーズのままじっとしています。ときにはじっとしたダンサーの上に黒い布が掛けられ、閉店後のディスプレイに置かれた品物のように身体が覆われたりもしました。単純に観客には疑問が生れるはずです。「それはダンスなのか?」もしこう問われるなら、ぼくは「イエス」とも「ノー」ともいいたい気持ちです。「イエス」というのは、静止した身体にも見る者は運動を感じてしまうという点で。つまり、静止の前後にはやはり運動の状態があったはず、むしろそうでなければ静止は静止として意識さえされないでしょう、静止とはそうした運動の終点でもあり始点でもある。そこには運動が充満している。また、そもそもポーズ自体が運動性を孕んでいる面もある。フォルムには、それ独自の運動感覚が刻印されている。少なくとも、そういう印象を与えるフォルムというものがあるとは言っていいでしょう。ただし、そんなことを言い出すともうダンスに限定しなくてもよい広い地平に出て行ったらいいのかも知れない。美術にだって、そんなフォルムへの問いはいくらでもあるだろう、と。そう、だから「ノー」とも言いたくなるのですよ。神村の静止をもはやダンスの静止などと捉える必要はなく、むしろ美術の問題と考えた方がいいのかも知れない。
また、とくに前半、神村がひとりで踊った時間に顕著だったのですが、どんどんポーズとか、運動のきれはしのようなものをやっていく。その内容もさることながら、こととことの「間」が絶妙だった。ひとつひとつが何かある意味の内に捉えられ、理解されてしまう前にすとんと切り落とす。クールな編集の技法がそこにあった。それは言い換えれば「やめる」ということです。やめる間が絶妙だった。先に触れた「静止」と繋がりそうな、そんなアイディアが、今回は際だっていました。
観客は、それをさしあたりは不可解な行動として受け取る。ぼくはそうでした。不可解さは、奇妙な魅力に反転することがある。シニフィエが特定出来ないシニフィアンというか。「はっ」とさせる、しかしその「はっ」の落としどころが見つからない、だからサスペンディドな状態にさせられる、それが延々と続く。そうした時間・空間をサスペンス化する仕掛けが、ところどころに用意してあって、例えば、相手のダンサーに黒い布を被せた後、神村はじっとそれを見ているのですが、一体彼女のなかでどんな動機が働いているのか皆目見当が付かない、とか。やはり相手のダンサーがポーズを取り替えていく間、脚立に乗った神村が何か粉っぽいものを振らせている場面とか。「ノイズ」というと単純になってしまうのだけれど、読みを宙づりにする仕掛けが実は独特な時間のフォルムを形成している、というのが、神村の観客へのアプローチと言えるのではないか、そうぼくは思っています。
DVDどうですか?手ぶれの多発する未熟なカメラマンによる映像で恐縮ですっ!神村さんについての感想を聞かせてください。

木村覚
(2008年5月17日 14:45:22)



(8)大谷→木村

神村さんのステージ録画見ました。すごい面白かったです。特に二日目のものが。
なんですが、その感想の前に、ちょっと「観客」の話で抜けていたものをフォローし
たいと思います。

音楽の享受者としての「リスナー」と「観客」、というような区分をした訳ですが、
そのほかに、というかこっちの方がライブ会場ではメインなんですが、ライブに来
て、踊ったり唄ったり、酒を飲んだりナンパしたり喧嘩したりといったカタチでその
ライブに関わる、なんといったらいいか、「参加者」という存在が、音楽にはありま
す。当たり前の存在すぎて書き落としていましたが、ある社交の場/歴史の場を作る
ツールとして音楽は基本的に存在していて、それに対する関わり方の違いが、その場
にいる人の態度を決めてゆく。音楽を中心にしたステージにおける、こういった「参
加者」は、木村さんがダンスの観客を区分した4つの分類では、だいたいどのような
ところに位置すると思われますか? また、ダンスの公演・鑑賞において、音楽には
まだ強く残っている、このような、「観客同士が互いに関わりあう・観客同士を互い
に関わり合わせる」力っていうものが、どのように働いているのでしょうか?
 
神村さんのダンスは、ちょっと本人からも伺ったんですが、ぼくには非常に「バレ
エ」的なものに見えました。バレエのレッスンは、足の形、ジャンプの形、手の伸ば
し方その他、基礎となる単位を覚えて使えるようにすることからはじめるんだと思い
ますが、今回の神村さんの公演は、そういった(神村さんにとってのダンスの)最小
単位が次々と、前後にほとんど文脈を構成しないような形で、繰り広げられてゆく。
クラシック・バレエの動き・基礎単位のカタチも、ぼくにとってはその殆どが意味不
明の、きわめてエキゾチックなものにみえるのですが(いきなり爪先立ってクルクル
何回も回ったりとか)、神村さんの動きのひとつひとつも、どこか知らない歴史を
もった国の、ぜんぜん知らない形式で発展して完成した、あるグラン・バレエを構成
するパーツみたいに見えて、でもそれは、構成されるべき元のお話も分からなけれ
ば、それが身体にどう映しこまれて動きになっているのかもわからないし、しかも、
語るための単語みたいな、それ自身では意味がない動きが、それだけ取り上げられ
て、断片として目の前でどんどん提示されてゆく、というのは、めくるめく体験でし
た。不可解ではなく、端的に未知なるもの。どこかにあるぼくが知らない大きなシス
テム、分類法、倫理のあり方が、一言づつあらわれては消える、みたいな感じ? そ
ういった意味では、こととことの「間」みたいなものにはあんまり意識がむかいませ
んでした。「この動きは、どんなお話を語るための素材の一部なんだろう。」と、ぼ
くはこれまでみたことのない民族のオペラのあり方・フォーム・この動きが統合され
てゆく全体像みたいなものを、神村さんの動きから勝手に演繹して想像して、でも、
それはまったく想像できなくて、うーん、もっと続けてみたいなあ、と思った、とい
う訳です。

とりいそぎここまでで。これから快快を見に行って来ます。

大谷能生
(2008年5月23日 12:09:02)
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# by directcontact | 2008-05-23 17:09

大谷能生×木村覚往復書簡(メール)1

DIRECT CONTACT VOL. 1とは何だったのか?

この問いをめぐって、大谷さんとぼく木村とで、メールで往復書簡を続けています。まだまだ話すべきことが残っている段階です、ひとまず(大谷さんが京都から帰ってくるGWあけくらいまでストップしてしまうので)「前半」として公開いたします。


以下は、4/29-5/2にかけて(1)木村→(2)大谷→(3)木村→(4)大谷→(5)木村と往復した8900字。

どうぞ、ご覧下さい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(1)木村→大谷 

大谷さんへ
 お疲れ様でした。

 打ち上げのとき、往復メールのかたちで、今回ぼくたちが行ったイベントが何であったのか、ということをふり返ってみようと2人で話し合いましたね。できれば、熱気と記憶が忘却の彼方へと消えてゆく前に、始めてみたいと思うのですが、よろしいですかね。

 ともかく、ぼくたちの予想を超えた観客動員で、なによりもそのことに、正直驚きました!入場料を払って下さった方が毎夜六十名くらいになり、その他、今後出演をお願いしている招待扱いのアーティスト、スタッフ、関係者を含めると立ち見もでた満員状態。このことは、神村恵が見たい、室内楽コンサートが見たいというお客さんのみならず、DCという企画自体に興味をもって来てくれた方たちもいた、ということを意味しているように思えます。前半だけ(一日目、二日目は神村、三日目は室内楽コンサート)で帰るお客が極端にすくなかったことからも、そのことは明らかでしょう。そして、だからこそ、こういうまとめを二人で書いた方がいいのではないか、という話しにもなったわけです。

 ところで「ダイレクト・コンタクト」というコンセプトには、音楽とダンスという異ジャンルを直接的に接触させることと同時に、両者の観客をそうした状況に置く、ということが含意されていました。大谷さんもそうかも知れないけど、ぼくは異質なもの同士が出会って、痙攣的な状態が発生することに、異常な執着があります。世は、「そんなの関係ねえ」も関係なくなってしまった、没関係的なマインドが充満してもいますけど、高クオリティなものが同じ空間に並んだ三日間は、思っていた以上の希有な異常事態だったのではないかと、主催者側なのにもかかわらず、一観客としての(それは、記録係だったぼくにとっては、片目がビデオカメラ越しの中途半端な観客だったりするのですが)興奮が持続したままです。

 一観客として、神村恵を見た目から(とくに、最初の日がその順番だったので、そう言いたくなるのですけれど)室内楽コンサートを聴き、見た感想なんですけれど、非常に「ピュア」な印象をもちました。室内楽コンサートのコンセプトは、即興演奏を主として行ってきた者たち(宇波、杉本、大蔵)による作曲に基づく演奏、でしたよね。彼らによって楽譜に記された指示に従う演奏者は、とても誠実に楽譜の指示を遂行する。それは、一日三曲、三日で九曲演奏された内のどの演奏にも共通に感じたことでした。で、その誠実さがピュアであると思った以上に、指示という他律的なきっかけで(演奏者の自発性ではなく)音が鳴り(on)消える(off)その状態が繰り返されたこと。「ピュアだ」という印象の中心はそこにあります。

 楽譜とはいえ、それが実際に演奏された際に、どういう結果になるのかわからない。そうした、作曲者の他律さえここには発生していて、誰もここで起きることがどんななのかあらかじめわからない。その「わからない」が「生起するもの」になるべく委ねること、ぼくは室内楽コンサートに一種の哲学があるとすれば、そうした「生起すること」を可能な限り肯定する「ある」の哲学なのではないかと思いました。最終日の打ち上げでも、そうしたことが確か話題になっていたと記憶しています。酔っぱらいの記憶に基づく限り。

 その打ち上げの席で、この点に触れた際、あえて「ケージ」という名をぼくが出して、やはりケージは関係ないと大谷さん、言ってました。確かそのとき、ケージという音楽史の一エピソードに室内楽コンサートへの解釈を一元化する必要はないんだ、ここ(室内楽コンサート)にはそれ独自の課題があり、回答があるはずだ、でもまだ誰もそれがどんなことなのか分からない、といったことを話し合った記憶があります。それは間違いなくとても大事な指摘で、また『貧しい音楽』のどこかを読めば理解出来ることなのかも知れないのですが、できれば、ぼくはそのことがもう少し分かりたいです、教えて欲しいです。加えて、大谷さんが室内楽コンサートをDCの第一弾に選んだ理由も聞きたいなあ。

 ところでぼくは、「ある」の哲学に対してある一定の疑問をずっともっています。「ある」の哲学に基づく芸術は、その芸術の主体が誰なのかをしばしば消去してしまいます。上記したように、室内楽コンサートにもそれを感じました。対して、神村のダンスでは、主体は明確に存在しています。神村という一主体がその場を支配していることは、いつでも明らかです(照明を自分でもってきて付けたり、などというところのみならず、たいていの瞬間瞬間においても)。しかし、その主体は謎めいていて、リーダブルな表情は見せてくれません。だから観客は振り回される。しかし、それは(上手くいった場合にはとくに)見ないわけにはとんといかない誘惑的な時間を生む素になっていると思うのです。

 他方、そうしたコントロールの力がうすい、弱いのはどうしてなんだろう、という疑問が室内楽コンサートにはあります。弱いのに「ある」という状況に観客をつきあわせているという事態には、SM的な関係性(一種の放置プレイ的な面)があると言えなくもないのだけれど。
 ぼくが思った神村恵と室内楽コンサートの際だった違いは、まずここにあると思いました。

木村覚
(2008年4月29日 0:23:10)
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# by directcontact | 2008-05-02 22:36 | vol.1神村恵×室内楽コンサート